2023年4月13日

SNSで話題の『素晴らしいスピーチ』



 自分の孫が大きくなったら、読んでほしいと思った「素晴らしいスピーチ」を投稿しました。

その「素晴らしいスピーチ」は4月12日におこなわれた東京大学の入学式で、新入生に向けてメッセージを贈ったのは、低・中所得国での感染症対策を支援する国際機関「グローバルファンド」で保健システム及びパンデミック対策部長を務める馬渕俊介さんです。
東京大学のホームページに掲載されている全文を掲載するので読んでください。

馬渕俊介さんのスピーチ内容】

新入生の皆さん、そしてご家族、ご親族の皆さま、おめでとうございます。
私自身も東大の卒業生ですので、入学時の受験戦争からの解放感、新しい学生生活を始めるわくわく感は、今もよく覚えています。

長い受験勉強が終わって、ついに自由。たくさん遊んで、恋人作って、ガンガンやっていいと思います。

同時に、大学の4年間は、「自分で創り、自分で切り拓く、自分の人生」のスタート地点です。そしてこれからの皆さんの人生の中で、一番自由に、自分の器を広げ、自分の夢を探して突き進める時期でもあります。

私は東大卒業後、発展途上国を日本の立場から支援する国際協力機構JICA、民間の経営コンサルティング会社のマッキンゼーの日本オフィスと南アフリカオフィス、世界銀行、それからビル・ゲイツがマイクロソフトを辞めて、途上国の保健医療の問題を解決するために作ったゲイツ財団で、世界の貧困や感染症に立ち向かう仕事をやってきました。最近では、WHOの独立パネルに参加して、新型コロナのような感染症の壊滅的な大流行を二度と起こさないための国際システムの改革を提案して、去年の3月からは、世界の感染症対策をリードするグローバルファンドという国際機関で、途上国の保健医療システムを強化して、感染症のパンデミックを起こさないように備える部局の長をやっています。

今日は皆さんに祝辞をお伝えできるということで、はるばるスイスからやってきました。この機会に、私が皆さんより少し人生を先に生きてきて、とても大事だと感じていること、大学に入るときに知っておきたかったと思うことを、2つのお話しを通して共有します。

一つは「夢」について。もう一つは「経験」についてです。

まずは、夢について。

私は、東大に一浪して入りました。学力が特別あったわけでもありません。特に最初は英語が全然ダメで、英会話の授業では、体育会の友人と二人で、一番後ろの席で下を向いて、先生に当てられないようにやり過ごしていました。 ただ東大に入るときにはっきり決めていたのは、大学の4年間で、人生をかけて取り組むことを決めたい、ということでした。何も考えずに野球だけをしていた中学、高校時代の生活への反省もあったと思います。

興味が湧いた授業をすべて試してみる中で、文化人類学の授業でパプアニューギニアの先住民のギサロという儀礼を見たんですね。そこで、すさまじい衝撃を受けました。めちゃくちゃ格好いいと。こんなに我々と全く違う世界観の社会に住む人々がいるのかと。そういう異文化に飛び込んでそこから学ぶ、文化人類学者になりたい、と思うようになりました。それからすべての学校の休みを使って、途上国を一人で旅しまくりました。グアテマラの山奥の少数民族の村にアポなしで行って、ホームステイさせてもらいながら、フィールドワークもやったりました。

でもそこで見たのは、子どもが病気になっても医者も薬もない状況、毎日の重労働と日焼け、栄養不足でおばあさんのような顔をしている若いお母さん、地域に根深く残る差別から仕事の機会がなくて、くすぶっている同年代の若者など、美しい洗練された文化の裏にある、多くの理不尽でした。自分は、学者としてそこから学ぶだけで終わりたくない。人々が自分たちの文化に誇りを持ちながら、理不尽と戦って、日本なら簡単に直せる、あるいはかかることもない病気に命や可能性を奪われずに人生を生きられる、そのサポートをしたいと思うようになりました。大学時代に抱いたこの夢は、その後のキャリアの中で徐々に形になって、今も続いています。

「夢」について皆さんにお伝えしたいことは2つです。1つは、夢に関わる、心震える仕事をして欲しいということ。修行のために敢えて途上国の支援とは関係のない仕事をしたときに実感したのですが、自分の夢に関わる本当に好きなことをやらないと、それを徹底的に突き詰めることはできません。また、好きなことをやってないと、幸せの尺度が「自分が他人にどう評価されているか」になってしまう。それではうまくいかないときに持たないです。他人の評価を気にする他人の人生ではなく、自分がやりたいことに突き進む自分の人生を生きてください。

もう一つお伝えしたいのは、夢は、探し続けて行動し続ける人にしか見つけることはできないということです。夢が見つけられないというのは、ほとんどすべての人が抱え続ける悩みですが、夢は、待っていれば突然降ってくるものではありません。探し続けて、行動してみて、その中で少しづつ「彫刻」のように形作っていくものだと思います。周りに流されず、自分の興味のままに、探し続けてください。そしてそれが一番自由にできるのは、今からの4年間です。

二つ目のお話は、「経験」についてです。

貧困や感染症、気候変動のような世界の問題に立ち向かう仕事は、問題がいつも無茶苦茶に複雑なので、「自分のやっていることが、本当に問題の解決に役立っているのか」という疑問と常に向き合うことになります。その中で私が「世界は変えられるんだ」と希望を持てたのは、西アフリカのエボラ出血熱緊急対策の仕事でした。

エボラ出血熱という病気はご存じかもしれませんが、2014年にギニア、リベリア、シエラリオネの西アフリカの3か国で大流行し、先進国にも飛び火して、世界を震撼させました。私は37歳の時に、世界銀行で、この大流行を止めるための、緊急対策チームのリーダーを任されました。

エボラの恐ろしいところは、感染者の約半分が死に至るということです。それは、自分や家族が感染すると、高い確率で、家族の誰か、あるいは全員が死ぬということです。私が対策チームを作った2014年の8月の時点で、感染者数、死者数は指数関数的に跳ね上がっていました。あとでリベリアのエレン・ジョンソン・サーリフ大統領が「私たちは全員死ぬと思った」と話されたほどの、危機的な状況でした。

緊急対策に当たって2つの難題に直面しました。一つ目は、時間です。感染症対策はスピードが命ですが、感染が爆発した3か国にはお金がなくて、大きな海外援助も遅れていました。世界銀行の資金が頼みの綱だったのですが、通常のプロセスでは、200億円近い大きな資金を効果的な形で届けるには、1年半かかります。そんなに待てるはずがない。そこで、経営コンサルティング会社、マッキンゼーで身に着けたオペレーション改革のノウハウを総動員して、プロセスを無くす、減らす、後回しにする、数倍の速さで回す、そして今何で遅れているかを全て目で見えるようにして、45日ですべてを完了させました。

もう一つの、より大きな難題は、死者の埋葬による感染の拡大でした。

エボラは人が亡くなったときに感染力が一番高く、お葬式で死者に触れてお別れをするのがその地域の非常に大切な儀式だったので、それを通じて感染が爆発しました。

この問題への医学的に効果的な対策は、死者に消毒液を掛けて、ビニールバッグに入れて、そのまま火葬することなのですが、このやり方は現地の人たちの大切な価値観に反するもので、全く受け入れられませんでした。その結果、死者の報告をしない、死体を隠すということが広がり、感染がさらに拡大しました。

この医学的な解と社会的な解との折り合いをつけるために、文化人類学者と現地の宗教リーダー、コミュニティリーダー、それから感染症対策の専門家と共同で、これなら感染のリスクを無くしたうえで、人々が尊厳ある死を迎えられるという、「安全な尊厳ある埋葬」というやり方を開発しました。それを宗教リーダー、コミュニティリーダーから、この方法でよいのだ、この方法で我々の尊厳と安全を守るのだというメッセージを発信してもらいました。

これが普及したことによって、埋葬による感染が防がれ、爆発していた感染が一気に落ちて行きました。2年後に、3か国すべてでエボラ感染を無くすことができ、死者も最悪のシナリオでは70万人を超えていつ終わるかわからないという予想だったのを、1万人強にとどめることができました。

この話でお伝えしたかったことは、皆さんはこれからいろいろな学問や仕事で身に着けた力、「経験」を組合わせて、そのすべてで問題解決に挑むということです。私のエボラ対策の例では、文化人類学の考え方、感染症対策の専門性、民間の経営コンサルティングのスピード感と問題解決力の3つを組合わせで持っていたことが、大きな助けになりました。民間と公共の壁や、医療と文化、社会の壁などを「越境」した経験を持って、問題解決をまとめる力は、問題がどんどん複雑になるこれからの世界では、本当に重要になります。

一つの分野で世界のナンバーワンになることは、とても難しい。ですが、いくつかの重要な分野の経験やスキルを、自分だけにユニークな組合せとして持っていて、それらを掛け算して問題解決に使えるのは自分だけという「オンリーワン」には、なることができます。

そこでとても大切なことは、「環境が人を作る」ということです。人間は弱くも強くもあり、自分のいる環境をたった一人で突き抜けて大きく成長していくことはとても難しいですが、逆に凄い人たちの中で、あるいは修羅場に身を置いて、難しい挑戦を続けていると、それが普通にできるようになって、その次のさらに大きな機会に手が届くようになります。環境は、「わらしべ長者」のように力をつけて、「経験を組合わせ」ながら得ていくものです。私の場合はそうやって徐々にできることを増やしていって、今に至っています。

最後に、人生のリスクについてお話しします。

私はずいぶん前のセミナーで、大手商社に内定しているという大学生から、「馬渕さんは、どうしてそんなにリスクをとれるんですか。」という質問をされました。ここで言う「リスク」ってなんでしょうか。

Dropboxというウェブサービスの創業者が、MITの卒業式のスピーチで、こんなことを言っていました。人生は日にちに換算すると、3万日しかないと。私はすでに、1万7千日を使っています。皆さんは、大体すでに7千日近く使っています。そして次の1万日は、もの凄く速く過ぎていきます。

時間がすごく限られている中で、考えるべきリスクは、何かに失敗するリスクではなくて、難しい挑戦に踏み込まないことで、成長できず、なりたい自分になれないリスク、世界に対してしたい貢献ができないリスク、行動を起こさずに「現状に留まることのリスク」だと思います。

これから皆さんが生きる世界は、これまでと比べて圧倒的に不確実で不安定で、危険が多く、逆にとてつもない可能性にも満ちた世界です。人類がこの先も長く生きられるかどうかは、次の数世代にかかっているとも言われています。

人類が未来に希望を持って生きていくためには、世界の最高の頭脳が、気候変動や世界の不平等、感染症との戦いなど、世界の最大の問題に立ち向かっていかなければいけません。日本の最高の頭脳である皆さんにも、世界の、そして日本の最大の問題に立ち向かっていって欲しいです。

パナソニックを創業した経営の神様、松下幸之助の「道」という、私の座右の詩があるのですが、そこで彼はこんなことを言っています。一部を引用します。

自分には自分に与えられた道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがいのないこの道

他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。

それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。

皆さんの東大での4年間が、皆さんだけのかけがえのない道を、悩みながら心を定めて懸命に歩む、その一番最初の充実した時間になることを、心からお祈りしています。

改めまして、おめでとうございます。どうもありがとうございました。

(“”は、『道をひらく』(松下幸之助著、PHP研究所、1968年)より引用)


令和5年4月12日
グローバルファンド 保健システム及びパンデミック対策部長
馬渕 俊介

県議・市議選での候補者の当落について

 


県議・市議選での修猷館出身の候補者は5名で、候補者5名の当落は下記の通りです。

皆様の応援・支援をお願いしましたが、県議会議員候補は全員落選で、市議会議員候補は全員当選となり、残念な結果になりました。
応援・支援ありがとうございました。

【福岡県議会議員当選者】
・当選者なし

【福岡市議会議員当選者】

・城南区で坂口嘉政(さかぐちよしまさ)当選 29歳 (坂口よしまさ後援会サイト
・中央区で阿部秀樹(あべひでき)   当選 28歳 (阿部秀樹(あべひでき)後援会資料

【落選者】

・中央区で岳康宏(たけやすひろ)落選 53歳 (岳 康弘後援会サイト
・城南区で二牟礼弘樹(にむれひろき)落選 42歳 (二牟礼弘樹(にむれひろき)後援会サイト
・早良区で古川悠哉(ふるかわゆうや)落選 39歳 (古川悠哉(ゆうや)後援会

県議・市議選での修猷館出身の新人候補者について

 


今回の県議選で、古川忠君次男の修猷館後輩『古川悠哉(ゆうや)』君を一九猷会の有志で応援をしていますが、下記の修猷館後輩3名も県議・市議選に新人候補者として選挙に出ます。

下記のサイト・資料の政策・公約等を見て、修猷館後輩3名の応援もよろしくお願いします。

城南区県議で二牟礼弘樹(にむれひろき)42歳1999年卒、
城南区市議で坂口よしまさ 29歳2011年卒、
中央区市議で阿部秀樹(あべひでき)28歳2013卒

※城南区県議 二牟礼弘樹(にむれひろき)
  ・修猷館高校 1999年卒業
  ・中央大学法学部政治学科卒業
  ・東京海上火災保険入社   
  二牟礼弘樹(にむれひろき)後援会サイト

※城南区市議 坂口よしまさ
  ・修猷館高校 2011年卒業
  ・東京大学 経済学部卒業
  ・内閣府   
  坂口よしまさ後援会サイト

※中央区市議 阿部秀樹(あべひでき)
  ・修猷館高校 2013年卒業
  ・長崎大学 医学部卒業
  ・福岡大学病院、福岡赤十字病院等勤務   
  阿部秀樹(あべひでき)twitterのサイト
  阿部秀樹(あべひでき)後援会資料

古川忠君の議員引退・後継について

 


令和5年1月号の県政レポートで、古川忠君が後進に道を譲るべく引退を決意したことを述べています。次男の悠哉君が古川忠君の志を継いで『古川悠哉(ゆうや)後援会』を立ち上げました。

一九猷会の有志で、修猷館後輩の若い政治家を目指す『古川悠哉(ゆうや)』君を応援したいと思い、『古川悠哉(ゆうや)後援会』を支援したいと考えています。

早良区在住の一九猷会会員で賛同される方は、後援会入会を是非お願いします。
又会員で賛同される方には、早良区在住の親戚や友人に紹介・後援会入会をよろしくお願いします。

また、『古川悠哉(ゆうや)』の応援大会への参加もお願いします。

『志を継いで、より良い社会づくりに全力で取り組む覚悟です』二男 悠哉

   後援会スローガン『若い力で、新しい県政。』
          ~「届かない」を変えたい!~

※下記の『後援会』の資料を見て下さい。
    古川悠哉(ゆうや)後援会

※下記の『応援大会』の資料を見て下さい。
  『応援大会』の【日時】3月18日19時より
         【場所】ももちパレス3F 
    古川悠哉の応援大会

※下記の令和5年1月号の県政レポートを見て下さい。
    令和5年1月号の県政レポート

※古川悠哉(ゆうや)後援会
 住所:福岡市早良区原3丁目18ー15「古川忠事務所内」
 Tel:092-822-8555
 Fax:092-822-8610
 Mail:furukawa@fukuoka-kensei.com

※古川悠哉(ゆうや)君の経歴は下記の通り
 ・修猷館高校 平成14年卒業
 ・早稲田大学 社会学部 中退
 ・GMOカードシステム(株)入社

2022年9月25日

200年史の館歌歌詞の疑問点(令和4年9月14日)

 


「修猷館200年史の館歌歌詞関係の疑問点」についてK君(1組)から一九猷会総会に資料を受け取りました。

「修猷館200年史」の館歌歌詞についての疑問と百道中学校歌についての調査の資料を添付しているので、見て下さい

資料① 「修猷館200年史の館歌歌詞関係の疑問点」

資料② 「百道中学創立70周年記念誌」の抜粋

2022年6月27日

「館歌歌詞を考える会」の活動一時停止(令和4年6月11日)

 


さて修猷卒業生にとって心のより所である館歌の歌詞の一部の誤記(玄海→玄界)に関する我々の問題提議、活動に対してその活動基金に多額の寄付をいただき誠にありがとうございました。
 最初に提議されたK君の意を受けて会長以下同窓会常任幹事会、クラス幹事会での問題提議、同窓会役員との話し合い、また個別に館長、同窓会長との面談等を続けて訴えてまいりましたが、残念ながら何ともまったく納得のいかない理由、学校側同窓会側がお互いに責任のなすりつけあいと言うか、ことなかれ主義の返答とも言うべき結論で一旦幕を下ろすこととなりました。
(館長も原本は「玄海」と認めているし、同窓会長も個人的には「玄海」が正しいと思うとメールに記されていたのですが) 
 修猷同窓会学年幹事会における私たちの提案に関しては正式に議事録に記載されましたので、今後又意気ある先輩後輩の方々によって、長くこの問題を風化させずに地道に同窓会会員の中に広く浸透させて行くことが重要であると認識しております。
(広辞苑でも玄界灘を表すのは「玄海」か「玄洋」と示されているのですから)
 とにかく多大なご支援をいただいた一九猷会有志の皆様にはご期待に添うことができずに大変心苦しい限りです。お詫び申し上げます。
 そして、さる6月11日開催した実行委員会に置いて この活動を正式に一旦幕を下ろすことに参加者全員一致で決定しました。

 「館歌歌詞を考える会」「一九猷会」会長

2022年5月30日

学年幹事会と意見交換会についての報告(令和4年5月12・19日)

 

学年幹事会(5月12日開催)での本部役員との遣り取りの経過報告

①まず、昭和46年卒のI氏が口火を切って、『菁莪』に掲載された館歌の歌詞が何故変わったのか?経緯を教えて下さいと、質問しました。
②同窓会長からの回答内容の要旨は、
・同窓会へ学校側から「玄海」から「玄界」に統一したとの文章を貰い、館歌の歌詞を決めるのは学校であると考えているので本部役員で話し合って了承した。
・学校側で、十分調査して決めているので、同窓会として議論をすべきではない。
③昭和42年卒S氏が、同窓会会長に質問と要望をした。
・「一九猷会会長が修猷歌集の編集委員であったS29年卒Y先輩から話を聞いた結果、当時館歌の漢字の変更(海→界)などは全く議題に上がったことはなく検討すらされなかった」のに同窓会長からの文書で「玄海」から「玄界」に統一したのは、おかしいのではないかと質問
・当時の編集委員の先輩方(24年卒H・N先輩、17年卒I先輩、30年卒M先輩、 S29年卒S先輩) に会って話を聞いてくださいと要望しました。
・以上の質問と要望を学年幹事会の議事録に必ず残して下さいと依頼
④同窓会長の回答
・53年の「修猷歌集」では議事録もないことも、館歌の歌詞についても議論はされていないことも学校側の調査で聞いているので、当時の編集委員の先輩方 に会って話を聞く必要もないとの回答
・学校側で、十分調査して決めているので、同窓会として調査・議論をすべきではないということを何回も言われた。
⑤S46卒I氏が、この問題に付いて議論検討する小委員会の立ち上げを提案する
⑥同窓会長とS46卒I氏、S42卒S氏との遣り取りがあり、決まった事項
・意見交換会を開催すること(検討する小委員会は拒否された)
・意見交換会のメンバーは小委員会の開催に賛成した12名(S31年卒からS46年卒までの委員のみ)と学年幹事に案内を出すとのこと。
⑦学年幹事会の議事録について議論
・その他の質問でも議事録に残すべきと承認メンバーについての意見をI君が発言
・議事録の承認メンバーは、議長(S56年卒A氏)と副議長(S57年卒T氏)の2名に決める。

⑧発言した学年幹事は、S51年卒Y氏で、「玄海」に戻す必要はないとの発言のみで、応援の学年幹事の発言はありませんでした

意見交換会(5月19日開催)での本部役員との遣り取りの経過報告

意見交換会の開催について(同窓会からの案内文書)

意見交換会での参加者の意見のまとめを作成したので、皆様に報告します。
1.日時:令和4年5月19日17時30分から1時間程度
2.場所:修猷同窓会館
3.参加者:11名

 【学年幹事9名】I氏(S23卒)、S氏(S31卒)、K氏(S40卒)、I氏(S46卒)、A氏(S50卒)、A氏(S56卒)、T氏(S63卒)、S氏(H3卒)、S氏(S42卒)
 【同窓会2名】同窓会長、事務局長
4.館歌歌詞に関する発言内容 
①「玄海」に戻すべきとの発言者(3名)ーーS氏(S31卒)、I氏(S46卒)、S氏明(S42卒)
②「玄海」に変更に反対の発言者(1名)ーー I氏(S23卒)
③学校が決めた「玄界」のままで良いとの発言者(5名)ーー K氏(S40卒)、A氏(S50卒)、A氏(S56卒)、T氏(S63卒)、S氏(H3卒)
④学年幹事の詳細な発言内容
・I氏(S46卒)の発言ーーどのように学校と「歴史伝統伝承委員会」が調査して公式見解を決めたのか知りたいので、委員会のメンバーを教えてほしい。
・I氏(S23卒)の発言ーー旧制中学での館歌歌詞は「玄界」で、絶対に「玄海」に戻すべきでないとの発言。
・A氏(S50卒)の発言
ーー「歴史伝統伝承委員会」の委員で、[DVD修猷歌集」での編集委員とのこと。
ーー「DVD修猷歌集」での編集時に、S53年編集の「修猷歌集」で館歌歌詞の「玄海」が「玄界」に変わったことに気が付き、調査したが、何故変わったか理由は判明しなかった。H教諭(国語担当)が歌詞の検討、校正しているので、「玄界」のままにした。
「現代かなづかい」に改めていないところが判明したので、学校に直すように言って直してもらったとのこと。
・S氏(S42卒)の発言ーーS53年編集の「修猷歌集」での編集委員のS29卒Y先輩の話を聞くべきではないかとK氏(S42卒)が言っているのは、館歌歌詞が「玄界」の荒き怒涛では「玄界灘」の荒き怒涛を意味しないのではないか。
⑤同窓会長の発言内容
・大正12年制定の館歌歌詞は「玄海」であると思う。
・「修猷歌集」では館歌については議論していないと思っているし、議事録がないので変更した理由はわからない。
・館歌の歌詞は大正12年制定から色々と歌詞は変遷している。「現代かなづかい」に改訂したりして時代に合わせているので、学校が統一した歌詞を元に戻す必要はないと役員一同で決めた。
・「修猷歌集」では「玄界」に統一はしていないと思うので、「修猷歌集」の変更理由を調査しても意味ないことと思う。
・館長は、面談の時の「同窓会で盛り上がりがあれば、再検討するにやぶさかでない」の発言 だけを取り上げた「館歌歌詞を考える会」の文書には 非常に迷惑していると言われている。
・今後の常任幹事会、学年幹事会での発言内容は、「一九猷会(S42卒)の中で議論したS42卒同窓生の結論の発言」にして下さいとのこと。(一九猷会会長には以前から言っているとのこと)
5.学年幹事会に関する発言
①意見交換会の案内文書について(意見交換会の案内文書
・I氏(S46卒)の発言ーー案内文書の文章に「その場で学年幹事の皆さんの意向を確認したところ、①②③委員会を設置しての議論のいずれも賛同者は少数で、学年幹事のみなさんにより【否決された】の文章は間違いで、意向の確認で議決は取っていないので、否決の表現はおかしい。
②学年幹事会の議事録について
・I氏(S46卒)の発言ーーその他の項目での発言を議事録に必ず載せて下さい。
・S氏(S42卒)の発言ーーその他の項目での発言も議事録に必ず載せて下さい。
・同窓会長の発言ーー発言の文言は検討して議事録に載せる。
・ K氏(S40卒)の発言ーー議事録はホームページだけでなく、メールで配布してください。

2022年5月29日

S29年卒Y先輩との面談(令和4年3月23日)

 


一九猷会会長からのメールの内容を掲載
 本日(23日)午後1時より修猷同窓会館にて館歌の歌詞表記が「玄海」が「玄界」に変えられて発表された「修猷歌集」の当時の編集者の一員であり「応援歌伝承会」のメンバーであった昭和29年卒のY先輩と、間を取り持ってくれた昭和46年卒で現在私たちの活動に熱心に協力してくれているIさんと二人でお会いしてお話を聞くことができました。
 Iさんからの依頼を受けてご自身で調べられたA4用紙9枚にわたるメモを持参されて「修猷歌集」編纂時の話を聞くことができました。86歳の御高齢でありますが実にしっかりとされて御自宅の室見から西新の同窓会館まで自転車でお出でになっていました。
 まずこの修猷歌集は当時の応援歌が先輩から後輩(現役学生)への口伝えで伝わっていたため正確な歌詞、楽譜にして後世に残そうと「応援歌伝承会」が中心となり、「館歌巻頭言」(毎年の総会の折に 先輩のどなたかが館歌斉唱の前に発声される)の作者である昭和2年卒のT先輩を委員長とし編集委員会が発足した。
 報国寮寮歌を始め今ではあまり歌われないような多くの応援歌が編纂されたが修猷歌集であれば館歌をまず第一に載せないわけにはいけないと、国歌に続いて館歌を掲載したが館歌の歌詞に関しては全く検討、議論することはなかったそうです。
 この時に歌集の館歌について解釈がつけられたが、その原稿(ゲラ)と思われるプリントには下半分に館歌の解釈文(問題の玄海のところは・・我らの青春の血は玄界灘の荒々しい怒涛のごとく湧き立っている・・・との解説)、上半分に歌詞が印刷されているが、それが「玄界」になっている。
 編集委員会でそれまで全く歌詞の漢字変更など問題になることなかったし、解釈文の「玄界灘の荒々しい・・」と言う文章から書きおろしたT輩が思わず流れで「玄界」と記してしまったのか又は印刷所の誤植なのかは全く分からないと。(自分らもわからなかった。気が付かなかった)
 過去の修猷館の印刷物を調べれば昭和17年卒業記念誌では館歌の「青春の血は」が「青春の地」になっていたり、昭和29年卒の卒業アルバムには館歌の「館友」が「館有」になっていたりと結構あったみたいです。
 はっきりしているのは当時修猷歌集を編纂する際に「玄海」を「玄界」に変えようとかの話は全くなかったということ。このことは現存の当時編集委員であった昭和24年卒のT先輩、N先輩、昭和17年卒のI先輩、昭和30年卒のM先輩らに電話で確認したが皆そんな話は全くなかったとのことであったと。
 このことに関しては私共が同窓会長から受け取った返書では「昭和53年に伝承委員会において検討された上で「玄界」と統一された」と記されていますが、全くそうではない、何かの理由、意図をもって変えられたものではないことが明らかになりました。
 又返書には原本と思われる大正期の歌詞(修猷200年史 196ページ記載)から5か所の変更があり(荒き穂波が怒涛に。質朴の風を甘なひつがきたえつつに、吾等の使命を果たさなんが吾等が使命を果たしてん等) この「玄界」だけを問題視するのはいかがなものか?との話もありましたが、他の部分の変更はこの歌集が編纂される相当以前、おそらく結城先輩が入学以前なので昭和10年代ではないかとの話であったが、それはそれで十分検討された上で変更されたものである。「玄界」問題とは別であると。
 その後伝承会は先輩から後輩への口伝て(口づて)で音符について必ずしも忠実でないところもあったので、正しい音源として確立したものを残そうとDVD製作委員会発足して、昭和41年卒の東京芸大卒のテノール歌手M先輩をリーダーに吹奏楽部や合唱部等総動員でDVDが完成した。その歌詞は先に完成した修猷歌集を基に「玄界」になっているが、あくまでも音の世界中心の活動であったので字句にはあまり気にすることはなかったと。
とにかく学校、同窓会側がしきりに「当時の伝承委員会がいろいろ検討した上で決まったこと」と言う言い訳けは完全に覆された感じでした。それだけで大きな成果であったと思います。
 尚 三番の歌詞の・・質朴の風きたえつつ・・の「きたえ」が「きたへ」と混在していることとと、やはり最後の「果してん」と記されているのが正確には「果たしてん」、「た」が入るのが正解であると。の指摘もありました。
 そして「玄界」の意味に関して一字ずつの意味を合わせて解釈する(暗い世界、幽界と)のはいかがなものか?とのご意見もいただきました。それだったら「玄人」(くろうと)はどう説明するのか?素人の対義語で技芸などその道に熟達した人、専門家のことであり、黒い、暗い人ではないと。
以上ご報告まで。

S29卒M先輩からのメール(令和4年2月21日)

 


一九猷会会長殿

「館歌歌詞を考える会」の発足趣意書等、有難うございました。
併せて、「菁莪」2022(p30)に掲載されたA.K.館友の投稿文も読ませて頂きました。貴会の提案と活動に対して、敬意と賛意を表します。
昭和29年卒の小生、当然「玄海」として歌い続けてきました。
「玄海」派です。何処かで「玄界」という表記を見た気がしますが、よくある誤記だ、と無視していました。
ところが、今回、貴殿のお手紙で、それが修猷館高校の公的なものであると知った次第です。貴会の活動で、是非、本来の「玄海」へ戻して下さい。期待します。
“Why Not!”“Sure, You Can !” です。

以下、愚見を付記します。
手元の「修猷館200年史」を見ると、修猷の歌には「玄海」「玄界」「玄界灘」の三種類の表記が見られます(「玄南の海」を対象外として)。
「玄海」=「玄界灘」で、「玄界」の「界」は「玄海灘」の海を表す漢字の重複を避けるための「同音の漢字による書き換え」であり、「界」は「海」の代用漢字である、と理解して来ました。
従って、「玄界」単独での使用は、貴説の通り、全く館歌の趣旨に反する愚かな誤用で、単なる誤記では済まされない事例です。
また、辞書に「玄海」はあっても、「玄界」はありません。
ところで、「玄海」の表記は、大正12年制定の館歌より更に古く、明治41年の修猷館卒業生「千人祝賀の歌」に遡るようです。その「千人祝賀の歌」の最後の4行は「・・・修猷館の名を飾れ/修猷館の名をあげよ/祝へもろ人いざ歌え/歌はむ声のあるかぎり/歌のひびきは松原の/ももちの松に風と吹き/玄海かけて鳴りわたれ」とあります(「修猷館200年史」p148)。
F教諭作詞の館歌は、「修猷館200年史」の本文(p194)には当初の歌詞は「青春の血は玄海の」と明記されているにもかかわらず、不可解な事に、巻末(p678)の修猷歌集の館歌は「青春の血は玄界の」となっています。
なお、作詞者・作詞年不明ながら、「百道原頭」にも「怒涛寄せなん玄海の」とあります(p683)。
一方、「玄界」の初出は、館歌より早く、大正4年の「報国寮々歌」のようで、「水や空なる玄界の」とあります。
作詞者は、何と、8年後に館歌を書いたF教諭とされています(同書p177・p679)。
館歌に出てくる「玄界」は、後でこれに合わせたのでしょうか。
また、この不一致は作詞原本の所在不明と関連するのでしょうか。正にミステリーです。
なお、昭和26年卒のK先輩は、作詞した「修猷館200年賛歌」および「燃えよ修猷」の中で、「玄海」の表記を用い、それぞれ「ああ玄海の潮鳴りに」「玄海に猛り湧き立つ」としています(p688)。
「玄界灘」については、「夫れ北筑」(p684)の中に、「玄界灘に波狂い」とあります。余談ですが、「玄界灘」といえば、貴殿が誘致に貢献されたHawksの応援歌(「玄界灘の潮風に」)が思い浮かびます。
こちらも原作に関して「栄光目指し」と「栄光を目指し」の両説あるようですが。
ご活躍を期待します。
2022年2月21日  Y.M (昭和29年卒)

同窓会会長文書に対する反論文書(令和4年2月21日)




今般の同窓会長名の2月18日付け文書は、問題点のすり替えと、事実と異なる説明を並べ立て、ことなかれ主義の現状維持主張に終始しています。

1、 本文で大正期の歌詞5ケ所の内1ケ所の復帰を要求と表現しているが、当方の主張は「ゲンカイ」は「玄海」が正当であり、「玄界」は間違いで、意味が違い、漢字表現上も文法上も使用方法が間違っているので訂正要求です。
玄界灘の略称は広辞苑にある通り「玄海」であり断じて「玄界」ではありません。

2、在籍時に歌唱した館歌が当人にとって正しいのは当然であり、過去にさかのぼって誤りを修正するのでなく、今後の為に正しい語句に直すのが趣旨です。

3、 高校は当初、平成13年統一説明を同窓会事務局に同調して、昭和53年に様々な議論や検討がされて公式決定と記載しているが、議事録もなく、語句変更の周知文書もなく、学校要紀、卒業アルバムを平成13年まで変更しなかったのは何故でしょうか?、事実経過を見ると、平成13年に後追い公式決定したと思われます。

4、 修猷館正史は菁莪記載の通り、1955、1965、2005年は「玄海」表記1985年(昭和60年)のみ「玄界」で、通常、表紙ページ記載が普通ですが、何故か添付資料の歌集に音符付きで表示され、修猷歌集の誤写転載と思われます。、本文に「玄界」へ変更理由根拠が明示されてなく、漢字変換ミスの有力根拠です。

5、 補足説明2-(1)歌詞について十分に議論したと記入してあるが、ならば何故に従来と違う表現にした根拠理由の周知文書を広報しなかったのか?又、公式文書に反映させなかったのか?この事実が変換ミスに気が付かなかった証拠でもあります。

6、 補足説明2-(2)「玄界」の表記が徹底されなかったと記入してあるが、変換ミスに気がつかなかったから昭和53年以降、200年史含め混在したと思われる。
公式決定した後、玄界表記の文化祭パンフレット等公式資料は未発見です。
当時、ワープロ導入初期で原稿作成時、玄界灘から玄界にしたと推察致します。

7、補足説明2-(3)明確に回答していますと記入しているが、「玄界」の語句に対する解釈説明はなく、公式決定したの一点張りで、だれが決定したかも、玄界決定理由も明らかにしていません。但し、不明であると回答はしていますが、不明な言葉を公式統一見解とする理由根拠が理解できません。

7、 補足説明3-(1)「いつの間にか」ではないと記入しているが、館友にとって周知文書がなければ、変更になったことすら分からないままですし、同窓誌「菁莪」にもホームページにも説明がないと「いつの間にか」になるのは当たり前です。
同窓会役員諸兄はこの歌詞変更事実をとっくにご承知だったのでしょうか?

8、 補足説明3-(2)意図的なものでなく錯誤と記入しているが、これまでにも諸先輩から昭和53年修猷歌集創刊時、昭和60年修猷館200年史発刊時、平成13年學校要紀、平成14年卒業アルバム、平成24年DVD歌集発刊時、平成27年同窓会名簿発刊時に「玄海」が「玄界」に誤植されていると指摘されたにも拘らず昭和53年公式決定済と意図的に無視してきたのは同窓会事務局と思います。

9、 補足説明3-(3)「玄界」の表記がマイナスのイメージを意味するとは考えてないと記入しているが、玄海を玄界に変更した理由も含め同窓会事務局は何と解釈しているのか詳細説明を再度督促いたします。
又、歌詞について高校と同窓会で十分に議論したと表明しているので、館歌2番の歌詞解釈を説明していただきたい。
館歌歌詞を考える会では、館歌2番の「ゲンカイ」は玄界灘の略称である「玄海」が正当であり、「玄界」表記では、意味が通じないから変更修正を主張しています。
対外的にも現行歌詞では、修猷館の漢字能力の程度が疑われると危惧しています。

2022年3月10日

常任幹事会の報告(令和4年3月10日)

 


一九猷会会長からのメールの内容を掲載

令和4年3月10日、月例の常任幹事会が開催され、最後に発言を求めて「先日から常任幹事さん方に書状を送り「玄海」の問題を考えていただきたいとお願いをした。
私たちはこの件で学校や同窓会と喧嘩するつもりではなく、何度質問しても具体的な回答(「玄海」から「玄界い変更しなければない必然性、変更した理由」)が得られない、常任幹事会で提案することも、提案書、資料を配布することも拒否されたので皆さんに直接郵送した。
私達はこの件で広く同窓の皆さんの意見が聞きたいし議論をしたいのです。
是非私共のところへ意見をメールでも電話でもいただきたい。
そして皆さんとディスカッションできるを場を作りたいと考えている」と話しました。ら、会長が一昨日話した通りのことで「学校がこれで行くと決めたのだから、これ以上同窓会は関与しない。二分され答えの出ない事がわかっている議論は絶対しません! またこのような意見が別れる問題が起こっていることが外部に漏れたら何と言われるか!学校側(館長)もそれを心配している。
同窓会は母校の学生がよりよい環境で学べるよう応援するのが目的である」など皆の前ではっきりと申しました。

今日は昨日メールしたように会長と面談したすぐ後なので静かにしとこうかとも考えましたが「何も言わんかったら白旗上げたと思われたらいかんけん継続の意思表示したほうが良かろう」との意見で話しました。

41年卒のWさんが「当時の修猷歌集を編纂した人たちの話を皆で話を聞くことをしたらどうか?自分が在籍時(生徒会長でした)に編集されたこともあり祥文社印刷のK先輩の話を持ち出されましたが、会長以下幹事長事務局長らがK先輩には聞いてないけど他の当時の担当の教師に学校が聞いたと。
そしてもう学校がこれで行くと決めたのだから!と再度強く言われました。

近々会合を開く予定ですが やはり42年卒以外の幅広い学年の賛同する仲間を広げる必要がありますね。

同窓会長との面談(令和4年3月8日)

 


一九猷会会長からのメールの内容を掲載

令和4年3月8日、O君と共に同窓会長と面談してきました。
予想通りというか「学校側が修猷歌集を編纂する際に当時の先生方が十分協議して決めた結果で この数十年「玄界」で通してきたのでそれが正解である。学校も変更する気はないと言っている」と。
会長自身は原本は間違いなく「玄海」であったろうと考えるが時代の流れで「玄界」の使われ方も「玄界高校」とか幅広い意味合いで使われるようになったのでそれで玄界灘を想起させるからいいのではないか、また「玄界」の意味が幽界を表すなんて言うと玄界高校に失礼だとか・・・。

また大正12年に制定された歌詞が5か所の変更があり(海→界も含めて)1か所のみ戻すのはおかしいだろう・・?!とのこと。大正12年に制定後変更があったことは我々も承知していることですが(‥青春の血は玄海の荒き穂波と湧き立ちて、質朴の風を甘なひつ・・我らの使命を→我らが・・など)
それは時代の流れにそって至極当然と言えば当然でそれも「玄海」が「玄界」に変えられる相当以前のことです。
そして荒き怒涛と湧き立ちてに続く言葉としてあえて「海」から「界」に変える必然性があったのか、昭和53年に修猷歌集編纂の折に検討された方々から「海」を「界」に変えたという証拠、文章文言が何かあるか?との問いには以前からの学校側との回答と同じく「全くそのようなものはないけど当時の先生方がしっかり検討された結果であると聞いている」との以前の返答文と変わらぬ答えで全くかみ合いませんでした。
だから私たちの主張のように「いつの間にか変えられたわけではない、決して誤植ではない」と。

そして とにかく私たちはこの件に関して学校や同窓会と対峙して戦うような気持ではなく同窓生の一員としてもう一度同窓生に問題提議して、議論し考えていただきたいという思いであると申しましたら 今更それをやったら必ず意見が二分されて大事になる、常任幹事会や学年幹事会の議題に上げて議論を起こすつもりはないとはっきり言われました。
またこの件で館長とも話したが、館長は「自分の話した意図が都合よく一部だけ切り取って記されていると非常に怒ってましたよ!」と。
館長と面談には一人では誤解が生まれてはいけないとS君に同伴してもらってましたから、穏やかな雰囲気で1時間ほど話し合い、私は間違った報告はしていないつもりですが。

そして42年卒の私たちに3度の返答書を送ったことで説明は十分果たしたつもりである、他の学年の常任幹事、学年幹事さんらに説明することはないと、あくまでもターゲットは42年卒だけのような感じでした。

同窓会は修猷館の現役学生が気持ちよく学べるようにバックアップするのが一番の役目だからこのような問題で同窓会がとやかく言うものではないとの話もされました。
もちろん当然の話です。
しかし修猷山脈に連なる修猷館の伝統文化を繋いでいく同窓会の役目もあるわけで、今後しぶとく幅広い学年の皆さんに訴え賛同を得る努力をすることで「42年卒の一部のうるさ型連中のたわごと」のような言われ方をされぬよう対策を検討する必要があると感じました。

同窓会本部としても、我々も同窓生の一員なのですから、その一同窓生の提議にまずは素直に耳を傾け、幅広い同窓生の意見を聞き、まじめに議論した上でその結果を学校側に伝えていただきたい。
その上で最終結論を学校が出されるならそれに従わざるを得ないと考えております。
ところが今回のように最初から提議、提案書配布拒否といった常任幹事長の独断、我々に対する喧嘩腰の姿勢では「質実剛健、自由闊達」の修猷館はどこに行ったのだろうという感じでいっぱいです。

明日3月度の常任幹事会が開催されますが(先月はコロナで中止でした)、今回はとりあえず流れ、雰囲気を見ることに留めたいと思ってます。

又 近々考える会の発起人会議を開く予定ですのでその際はよろしくお願いします。

2022年2月21日

「館歌歌詞を考える会」の活動への同窓会の対応(令和4年2月20日)

 


一九猷会会長からのメール内容

【メール文面】
同窓会常任幹事長より役員へ添付文書と共に下記のメールが送付されております。どうしても常任幹事長主導で議論に持ち込ませないように図っているみたいですね。
既にご承知のような「木で鼻をくくったような」ペラペラの1枚の返答書ですべて終わらせたと考えているところが不思議です。

【常任幹事長より役員へのメール文面】

修猷館同窓会役員 各位

今回は、一九猷会(S42卒)有志を中心とした「館歌歌詞を考える会」の活動への対応について報告します。
皆さんにも、館歌2番歌詞「ゲンカイ」の表記についての問題提起、さらに歌詞変更を求める活動への賛同を募る内容の文書が届いているかと思います。

令和3年1月に、一九猷会(S42卒)有志から館歌2番歌詞「ゲンカイ」の表記について「玄海が正しいのではないか」と問題提起があり、学校と同窓会歴史伝統伝承委員会が協力して事実確認を行いました。
令和3年7月に回答書を提出し、その後の面談や追加報告書でも学校見解を説明し、理解を求めてきました。
学校の見解が明らかであったこともあり、問題を提起した一九猷会有志への回答で十分と考え、これまで役員の皆さんに詳細報告をしていませんでした。

しかし、皆さんにも「館歌歌詞を考える会」から直接文書が届き、少々困惑されたのではないかと思います。

そこで今回の件について
・同窓会会長のお考え
・学校の見解
・事務局からの補足説明
をまとめましたので、添付します。

本メール添付の文書を読んでいただき、それぞれ冷静にこの問題について考えていただきたいと思います。

【添付資料】

  「館歌歌詞を考える会」の活動への対応について


館歌歌詞を考える会の活動報告①(令和4年2月8日)

 


添付の三編の資料を修猷館同窓会本部役員、常任幹事(各学年1名。但し昭和40年卒以降)、及び各地区同窓会役員(東京、近畿、中京、東北、中国四国、沖縄他九州各県)の63名へ郵送で送付いたしました。

また、全学年幹事(各学年3名)の124名へ郵送で送付しました。

また、各役員さん以外でこの人には是非資料を送って支持をいただきたい!という方がいらっしゃれば是非ご連絡ください。(特に我々の先輩方の中で!)

そして 今月の常任幹事会はコロナのせいで中止になりましたが、この書簡が皆さんに届き次第常任幹事会で議題に上げてもらうつもりです。

次回考える会役員会に関しては 追ってご案内申し上げます。

   一九猷会会長

【三編の添付資料】
  趣旨書 資料①
  趣旨書 資料②
  歌詞変遷資料③